ぼくのおじさんの足の裏の深い穴

確か中一の頃だったか。クラスの女の子に一冊の本を借りた。北杜夫の「ぼくのおじさん」がそれだ。内容はあえて書かないが、そのユルくも鋭い文章が紡ぎ出す、シュールでナンセンスな物語展開に、当時の僕はかなりの衝撃を受けた。
女の子に本を返す時、僕はその子から告白された。学校の中庭にある武道場の裏で。夏だったから蚊が沢山飛んでいて居心地が悪かったし、早く帰って北杜夫の別の本を買いに行きたかったのだが、女の子の真剣な表情がそれを許さなかった。
結局僕はその子をふった。その数週間後にクラスの一番可愛い女の子と付き合い、一週間で別れ、北杜夫の本を買うのはずっと忘れていて、いつの間にか夏が終わり冬が来て、今日が来た。
実は今日、初めて北杜夫の本を買った。本屋で「ぼくのおじさん」が目に留まり、これは何かの前兆かもと、その本をレジに持っていった。もう一度「ぼくのおじさん」の世界に浸ろうと思う。
だが、少し怖いのは気のせいだろうか。不注意で、ぼくのおじさんの足の裏の深い穴に落ちてしまったような、そんな漠然とした不安がある。もしかしたらこの八年間、ぼくはずっと穴の中で暮らしていたのかもしれない……。

ぼくのおじさん (新潮文庫)