駱駝を乗せた箱

雨が降っている日は駅までの道程が非常にかったるいので、家の前から市バスに乗っていつも使う駅より一つ先の駅まで行く。バスに乗る人はあまり多くない。朝の8〜9時に電車に乗ると微妙に混んでいて立つ事が多くなるのだが、その時間にバスに乗ると必ず座る事が出来る。
屋根のついたバス停で、車が濡れた道路を走る音や、雨粒が屋根を打つ静かなリズム音を、見知らぬ誰かと聞いている時間はとても心地良い。時折屋根から手を出してみたり、傘を地面でトントンしたり、大抵の人がそういう動作をし、僕はそれを見てどういうわけか時間を共有している喜びを感じるのだ。
バスが来ると人々は小銭を用意したり、時計を確認したりして、バスが来た事への安堵の気持ちをなんらかの方法で(人によって様々であるにせよ)表現する。電車と違ってバスは遅れる事が多々あるからだろう。
僕は二百円を支払い、バスの一番後ろの左側の席に座る。停止中の車内は静かで、それ故に太ったサラリーマンの荒い鼻息が響き渡り、女子高校生がケータイを弄る音がそれに重なって絶妙なハーモニーを生み出す、という事は無いが、エンジンを切った車内は異常に静かで世の中が雨で満たされているという状況を弥が上にも認識させられる。だがそれは決して悪い事ではないはずだ。
バスはゆっくりと目的地へと向かう。民家の屋根にかするかと思うほどの道を、慎重に、そしてある時は大胆に、バスは走る。大きなフロントガラスに打ちつける雨を長いワイパーで押し退け、道中で人と言う名の駱駝を乗せて行き、バスは大きく揺れながら走る。コックピットの運転手はダルそうに目的地をアナウンスし、すれ違う同業者に軽く手を挙げる。目深にした帽子は、何かを訴えているのだろうか。
終点に到着すると、駱駝達はのそのそと椅子から立ち、外界に降り注ぐ雨を睨みつけながら各々の砂漠へと散らばっていく。僕はもう一度バスを振り返る。運転手を残して空っぽになったバスは、雨に濡れてとても汚らしく見える。一体こいつはあと何回、同じ道をグルグル回り続けるのだろうかと、ふと思ってしまう。バスに乗るとワクワクする反面、そういった哀愁をも感じてしまい、憂鬱になる事も屡だ。