まるで自らの雛形

盆栽とは、小さな鉢の中に巨木を再現し、そこに小地球を作り上げる事が楽しみの一つである。細かい水遣り、剪定、葉狩りを季節に合わせて行い、時には針金をかける事によって強制的に枝の行く末を定めてやったりもする。
まあそんな風に小地球を作るのも楽しいのだが、僕にとって盆栽とは自分の雛形を作るのに等しい。それは人形とは違い人間の形を模した物ではないけれど、「部分的」にではなく「全体的」に、自分に近い姿形を成しているように思える。「全体的」に似ているといっても、第三者から見れば盆栽は何処まで行っても盆栽でしかないし、僕自身「全体的」という言葉自体に何の意味も見出せてはいない。ここで言う「全体的」とは、「部分的」に対してあまりにも漠然としているという意味でしかなく、つまり「何となく」とか「ぼんやり」とかいう言葉と何ら変わりない。
このブログとほぼ同時期にミニ盆栽を始め、試行錯誤しながら育てているケヤキ。それが何となく、ぼんやりとだが、全体的に自分に似てきているのが面白くて仕方がない。水や肥料や日光を媒介にして、僕のゴーストがコピーされたのだろうか。なんて思ってしまうくらいだ……

お洒落な大人の盆栽入門