喫茶店に生る実

珈琲が好きだ。特に煙草と珈琲の組み合わせは秀逸で、嗜好品同士が相俟って紡ぎだす絶妙な味わいは何物にも換え難い。
そんなわけで、近頃の禁煙主体の某コーヒーショップの類が僕は嫌いで、それよりも煙がもうもうと立ち上る場末の古臭い喫茶店に心を奪われる。喫茶店は良い。確か宮本輝の「道頓堀川」では、雑多な町で営業する喫茶店が舞台だったと思うが、まさにあれこそが僕が好きな喫茶店の姿である。
茶店激戦区の名古屋には三度しか行った事はないが、あの町の朝の喫茶店は特に良い。まず、モーニングが素晴らしく、四百円前後で珈琲、サンドウィッチ、ゆで卵、柿ピー等を頂けてしまう。そんな店がゴロゴロとあり、尚且つ一日中モーニングタイムの店まである次第だ。しかし、名古屋の喫茶店の真髄はそこに非ず。僕が惹かれたのは常連客の多さと、そのあっさりとしたコミュニケーションの取り方で、それこそが喫茶店の持つ真の魅力であると思う。一人の常連客が店に入ると、マスターを始め他の常連客達が次々と連鎖的に挨拶をする。そこから何か世間話にでも発展するのかと思いきや、入ってきた常連客は注文もせずに一人で新聞を読み始めるし、他の客もそれぞれの世界を堪能し始める。しかも殻に閉じ篭っているわけではなく、最低限そこには解放された心があるから、決して店内は暗くならない。珈琲と煙草の煙が充満する店内において、客達はそれに酔っているのか、静かに本や新聞の頁を捲り、煙を細く長く吐き、苦い珈琲を啜る。
名古屋の朝の喫茶店が忘れられず、東京や神奈川でもそんな店を探しているが、なかなか見つからないものだ。